クリエイティブの仕事は、傍から見ると「楽しそう」「生まれ持ったセンスの勝負」と言われることがある。 でも、少なくとも僕はそうは思わない。経験も浅く、ほぼ趣味程度で、まだまだアウトプットの質も低い僕だからこそ言えるのかもしれないが、クリエイティブは、とても辛い仕事だ。

敵は、まず自分自身

一番の敵は、己自身だ。理想とする完成形を思い描き、それに向かおうとすればするほど、徹底的な自己批評が始まる。そして、その理想に届かない自分を情けなく、愚かだと感じる。何度も自分を否定し、心をすり減らしながら、理想へと近づこうと足掻く。それは精神的にきつい。 ここで負けたら、鬱そのものである。でも、諦めたらもっと怖い。自分のアイデンティティが消え、自分でなくなる感覚に襲われるからだ。

敵は世間でもある

もうひとつの敵は、世間だ。自分が掲げた理想が、他人から見れば価値のないゴミ同然である可能性は常にある。 僕がやっているのはアートではなく、デザインだ。つまり、自分の「やりたいこと」ではなく、クライアントが抱える「問題の本質」に最適なアプローチを考え、それを形にするのが使命だ。だからまずは問題を解釈し、リサーチをして、自分のやりたいことをどう当てはめるかを考える。ただ、その発想自体が的外れな場合もある。 多様な人と意見を交わしながら進めても、アイデアが認められないことはある。そんなことばかりだ。そこでは、自分の力不足を突きつけられる。 さらに、世間から「そのアウトプットは自己満足だ」「本質的じゃない」「違う」と突き返されることもある。それは僕の負けだ。言われたこと自体は正しい。でも、辛い。辛すぎる。存在意義を否定されたような気持ちになる。しょっちゅう高層ビルから突き落とされたような感覚を味わう。(だから僕のブログのトップページは、ミドルフィンガーで反抗しているとも言える。少しでも自分を守るために。)

色々な反論やアドバイス、フレームワーク的な解釈方法はあるだろうが、そんなのは本質的ではない。つまり、そのような思考や改善策は、その人自身の経験の上で腑に落ちたものであり、僕が持つバックグラウンドや経験に当てはまるわけではないからである。 というよりも、当てはめてたまるか、おせっかいボケナスが。と表現した方が正確である。

それでも続けたい理由

こんなにも辛いのに、それでも僕はクリエイティブを続けたい。半分趣味であるのに。なぜなら、自分の作ったものを通して、誰かにワクワクしてほしいからだ。「生きていてよかった」と感動してほしいからだ。 感動を生み出すのは、途方もなく難しいと言われる。人生で一度も他人に感動を与えないまま死んでいく人が大半の中、僕は感動を生み出す側にいたい。というより、僕にはそれくらいしか、社会に貢献できて、なおかつ自分が本気でやりたいことがない。 感動は、人間のエネルギーだ。だから僕は、身を削ってでも感動を生み出したいと思っている。今の僕はまだまだだ。小指を突っ込んだ程度の存在だ。痛くも痒くもない。いつかは東京ドームが埋まるほどの人に、いや、世界中に感動を届けたい。そして、誰もが「生きていてよかった」「人生って、おもしろい」と心から思える世の中をつくりたい。